『博士の愛した数式』 小川洋子

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

 人の幸せとは、生き方が美しく、素直であることがベースになるのだろう。
 「境遇」と「幸せ」は、同心円の二つの円の関係のように重なる部分はあるものの、決して一致するものではないのだろう。そして、生き方によって、その重なり部分はどんどん小さくなったり大きくなったりもする。「幸せ」は、「境遇」よりも「生き方」のほうと、よりダイレクトに結び付く関係にあると思う。
 また、子どもとは守るべき存在であるとともに、かしこく、たくましい存在であること。
 怒りは、家族や自分の尊厳、人としての誇りが侵されそうなときや侵されたときには躊躇なく発してよいというか、発するべきあること。
 そんなことを考えさせてくれた作品。

 以下、引用文中のゴシックは、ぼくがつけたもの。
 
家政婦として博士宅で働く主人公と博士の会話

「証明に、美しい、美しくないの区別なんてあるんですか」
「もちろんだ」
 博士は立ち上がり、流しで洗い物をしている私の顔を覗き込むようにして断言した。
「本当に正しい証明は、一分の隙もない完全な強固さとしなやかさが、矛盾せず調和しているものなのだ。たとえ間違ってはいなくても、うるさくて汚くて癇(かん)に障(さわ)る証明はいくらでもある。分かるかい? なぜ星が美しいか、誰も説明できないのと同じように、数学の美を表現するのも困難だがね」

1から10までの数字を足し上げると55になることについて、10歳のルート(主人公の子ども。博士が仮に名付けた)が、1から順番に足して答えを求めた後の博士のことば

「正解さえ出せば宿題は終わり、というものではない。55へ到着する、もう一つの別の道順があるんだぞ。そこを通ってみたいと思わないかい?」

未婚の母である主人公とルートとの会話

 昔、雇い主にいじめられて泣いていると(泥棒の濡れ衣を着せられたり、用意した食事を目の前でごみ箱に捨てられたり、能無し呼ばわりされたり)、小さかったルートがよく慰めてくれた。
「ママは美人だから大丈夫だよ」
 確信に満ちた口調でそう言った。それが彼にとっての、最上級の慰めの言葉だった。
「そうか……ママは美人なのね……」
「そうだよ。知らなかったの?」
 わざと大げさにルートは驚いて見せ、そうしてまた、
「だから大丈夫なんだよ。美人なんだから」
 と、繰り返した。泣くほど辛くないのに、ルートに慰めてもらいたいだけで、嘘泣きしたこともあった。彼はいつでも進んで、だまされた振りをしてくれた。

わけあって博士宅の家政婦を馘(くび)になった主人公。その後、いわれなき誤解を受けた主人公と、博士の義姉の会話

「意図?ちょっと誤解なさっていらっしゃるようですね。たかだか十歳の子供ですよ。遊びたいから遊びに来た。面白い本を見つけたから、博士にも読ませてあげようと思った。それで十分じゃありませんか」
「ええ、そうでしょう。子供には邪心はないでしょう。ですから私は、あなたご自身のお考えをお尋ねしているのです」
「私は息子が楽しい気分でいてくれること以外に、望みなどありません」
「では何故義弟を巻き込むのですか。義弟と三人で夜出掛けたり、泊まり込んで看病したり。私はあなたにそういった仕事を要求した覚えはありません」
 家政婦さんがお茶を運んできた。業務に忠実な家政婦さんだった。一言も口を挟まず、コトリとも音を立てず、人数分のお茶を並べていった。彼女が私の味方になってくれそうもないのは、明らかだった。いかにも、面倒な事に関わり合いになるのは御免だというふうに、さっさと台所へ戻って行った。
「職務を逸脱したことは認めます。しかし、意図や企(たくら)みがあってのことじゃないんです。もっと単純なんです」
「お金ですか?」
「お金?」
 あまりの意外な言葉に、私の声は裏返ってしまった。
聞き捨てなりません。しかも子供の前で。撤回して下さい
「それ以外に考えられないじゃありませんか。義弟のご機嫌を取って、うまく丸め込もうとしているんです」
「馬鹿な……」
「あなたは馘になったはずです。私どもとは、縁が切れたはずです」
「いい加減にして下さい」
「あの……」
 再び家政婦さんが姿を現した。エプロンを外し、バックを提げていた。
「時間が来ましたので、失礼させていただきます」
 お茶を出す時と同じように、足音さえ立てず、出ていった。私たちは彼女の後ろ姿を見送った。
 博士の考える濃度はますます深まり、ルートの帽子は皺(しわ)だらけになっていた。私は一つ長い息を吐き出した。
「友だちだからじゃありませんか」
 私は言った。
「友だちの家に、遊びに来てはいけないんですか」
「誰と誰が友だちと言うのですか?」
「私と息子と、博士がです」
 未亡人は首を横に振った。
「あなたは見込み違いををなさっておいでかもしれません。義弟には財産などありません。親から受け継いだものは全部、数学に注ぎ込んだきり一円だって戻ってこなかったんで」
「私には無関係の話です」
「義弟に友人などおりません。一度だって友人が訪ねてきた例(ため)しなどないんです」
ならば、私とルートが最初の友だちです

 博士はいつどんな場合にも、ルートを守ろうとした。どんなに自分が困難な立場にあろうと、ルートは常にずっと多くの助けを必要としているのであり、自分にはそれを与える義務があると考えていた。そして義務が果たせることを、最上の喜びとした。 
 博士の思いは必ずしも行動によってのみ表されるとは限らず、目に見えない形で伝わってくることも多かった。しかしルートはそのすべてを漏らさず感じ取っていた。当然な顔で受け流したり、気付けないままにやり過ごしたりせず、自分が博士から与えられているのは、尊くありがたいものだと分かっていた。いつの間にかルートがそのような力を備えていたことに、私は驚く。
 自分のおかずがルートよりも多いと、博士は顔を曇らせ、私に注意した。魚の切り身でもステーキでも西瓜(すいか)でも、最上の部位は年少の者へ、という信念を貫いた。懸賞問題の考察が佳境に入っている時でさえ、ルートのためにはいつでも無制限の時間が用意されていた。何であれ彼から質問されるのを喜んだ。子供は大人よりずっと難しい問題で悩んでいると信じていた。ただ単に正確な答えを示すだけでなく、質問した相手に誇りを与えることができた。

丹念に料理の仕度をした後の主人公の感想

 私は出来上がった料理と、自分の手を交互に見比べた。レモンで飾り付けた豚肉のソテーと、生野菜のサラダ、黄色くて柔らかい卵焼き。それらを一つ一つ眺めた。どれもありふれているが、美味しそうだった。今日一日の終わりに、幸福を与えてくれる料理たちだった。私はもう一度自分の掌(てのひら)に視線を落とした。まるで自分が、フェルマーの最終定理を証明したにも匹敵する偉業を成し遂げたかのような、ばかばかしい満足に浸っていた。

博士が誤ってお祝いのケーキを床に落としてしまった後のやりとり

 私たちはすぐさま博士に寄り添い、彼を慰めるのに最も相応しいと思われることをした。ルートは博士の手から空き箱を引き離し、そこに入っていたのは大したものじゃないんだ、とでも言うように、ぶっきらぼうにそれを椅子の上に置いた。私はラジオのボリュームを下げ、食堂の電気を点(つ)けた。
「取り返しがきかないなんて、大げさ過ぎます。平気です。しょげるほどのことではありません」
 私はてきぱきと手を動かした。こういう場合、ためらったり迷ったりしていては駄目だった。博士に余計なことを考える暇を与えず、できるだけ速やかにさり気なく、事態を元の姿に戻す必要があった
 ケーキは斜めに滑り落ちたらしく、半分が潰れていたが、残り半分は辛うじて形を留めていた。チョコレートで絞り出したメッセージは、博士&ルートおめ、まで無事だった。とにかく私はケーキを三つに切り分け、ナイフをこてにして生クリームを塗り直し、落下して散らばった苺(いちご)やゼリーのウサギや砂糖菓子の天使をバランスよくあしらい、どうにか体裁を整えた。そしてルートの皿のケーキに、ろうそくを立てた。
「ね?ちゃんとろうそくだって立てられたよ」
 ルートは博士の顔をのぞき込んだ。
「これで炎を吹き消せます」
「味に変わりはないんだし」
「そう、何の不都合もありません」
 私とルートは交互に博士に話し掛けた。犯したミスの小ささと、博士の背負っている罪の重さがいかに不釣合いであるか、繰り返し話して聞かせた。